黒沢尻の旅館伊勢屋に生れた玉萩は、難産のため生後間もなく母を失い、 自らも身体・言語に障害を持ちましたが、早くから文学に親しみ、「和賀新聞」「岩手毎日」などに詩や小説を多数発表、1907(明治40)年、浪漫的な新体詩集『野ばら』を刊行しました。しかし、新体詩は当時すでに時代の潮流に後れたものになっており、その優れた浪漫性はついに世に認められることはありま せんでした。やがて家業の没落にも遭い、不遇のうちにその生涯を閉じますが、啄木らの寄稿を得て文芸誌「トクサ」を刊行するなど、当時の黒沢尻の文化に大きな役割を果たしました。