文学碑

きたぶら 鬼剣舞

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概要

1902(明治35)年10月、啄木は旧制盛岡中学の同級生であった黒沢尻の小澤恒一宅を訪ねました。中学を中退し、文学で身を立てるために上京する直前の時期で、後に妻となる堀合節子との恋愛に悩んでいたころのことです。二人の恋愛に関し小澤は親身になって話を聞き、ともに夜の九年橋を歩きました。啄木は後にその時のことを、小澤への大きな感謝の念を込めて日記に綴っています。

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軽石錦苔は立花村、現在の北上市立花に生まれ、本名は佐一兵衛、別に 橘中庵、須載亭、松羅堂、五月庵、錦苔亭などと号しました。奥州俳諧の四天王に数えられた盛岡の小野素郷門の逸材で、素郷から文台(句会などの席でその主 帝者・指導者が用いる机。俳人の権威の象徴)を受け継ぎ、当時全国に名を知られた俳人です。

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西行は平安末期から鎌倉初期の僧侶で、花(桜)の歌人として広く知られています。俗名は佐藤義清といい、もとは鳥羽上皇の警護にあたる北面の武士でした。

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斎藤茂吉は山形県金瓶村(現在の上山市)の農家守谷家に生まれました (後に親戚の斎藤家に入籍)。東京帝大で精神医学を学び、青山脳病院院長となりましたが、早くから正岡子規に傾倒して歌を作り、1906(明治39)年伊藤左千夫に師事、「馬酔木」を経て「アララギ」に参加、左千夫を助け同誌の編集にあたりました。1913(大正2)年刊行の第一歌集『赤光』が高い評価を 得て、歌壇に止まらず広く文壇に影響を与え、茂吉は近代短歌史上最も輝かしい存在となりました。

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菅江真澄は本名を白井英二(秀雄とも)といい、若くして国学と本草学(博物学的な薬学)を学んだ後、30歳にして故郷を発ちました。 信州、越後を経て出羽に至り、以降、奥州各地や蝦夷地(北海道)を巡り、膨大な量の日記、地誌、随筆、図絵などを残しました。 晩年の十数年間は秋田に住みつき、76歳で没しましたが、民俗、歴史、地理、国学、本草学、宗教など幅広い内容にわたるこれらの著述は、今日「菅江真澄遊覧記」と総称され、わが国の近世を知るうえで貴重な文献となっています。

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深は教育者で村助役でもあった瀬川早水の三男に生れ、後に同じ一族の医師 瀬川雅夫の養子となりました。旧制盛岡中学では啄木の一年後輩にあたり、それぞれの発行する同人誌を合併して「爾伎多麻(にぎたま)」を発刊、白羊会を 創設するなど、ともに活発な文芸活動を行いました。中学卒業後、京都帝大医学部に進み、小児科の医師となり、静岡県の浜松に在って晩年は俳句を作りました。

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詩人として、また彫刻家として知られる高村光太郎は、1945(昭和20)年4月、空襲で東京の自宅とアトリエを焼失し、宮沢賢治の縁で花巻に疎開しました。 敗戦後は1952(昭和27)年まで、雪深い花巻郊外(当時太田村山口)の粗末な山小屋に身を置き、過酷な自然の中で、多くの戦争詩を作った自らと激しく向かい合う、独居自炊の生活を送りました。そこから生み出された作品は、詩集『典型』(1950年)に収められています。

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寺山修司は高校時代から俳句や詩に早熟な才能を発揮し、早稲田大学入 学後には「チェーホフ祭」50首で短歌研究新人賞を受賞しました。その後、評論やエッセーイ、演劇、映画などに独創的な活動を展開し、特に演劇では演劇実験室・天井桟敷を主催、前衛的手法により演劇の新しい地平を開拓して、国際的にも高い評価を得ました。

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黒沢尻の旅館伊勢屋に生れた玉萩は、難産のため生後間もなく母を失い、 自らも身体・言語に障害を持ちましたが、早くから文学に親しみ、「和賀新聞」「岩手毎日」などに詩や小説を多数発表、1907(明治40)年、浪漫的な新体詩集『野ばら』を刊行しました。しかし、新体詩は当時すでに時代の潮流に後れたものになっており、その優れた浪漫性はついに世に認められることはありま せんでした。やがて家業の没落にも遭い、不遇のうちにその生涯を閉じますが、啄木らの寄稿を得て文芸誌「トクサ」を刊行するなど、当時の黒沢尻の文化に大きな役割を果たしました。

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浜夢助は早くから文芸に関心を持ち、はじめ短歌や俳句、川柳などをさま ざまな雑誌に投稿していましたが、やがて川柳に専念。1929(昭和4)年に河北新報社が「河北くらぶ」を発刊するとその川柳壇選者として迎えられました。1937(昭和12)年に は「川柳北斗」を、1947(昭和22年)には「川柳宮城野」を創刊主宰し、長く東北地方の川柳界のリーダー的存在として活躍。多くの川柳作家を育てあげましたが、その一 人に北上(黒沢尻)の高橋放浪児がいました。

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展勝地の生みの親、沢藤幸治はその開設の資金調達のため、時の総理大臣・原敬を訪ね、多大な援助を受けました。 その後、原の恩に報いるために、句碑の建立を計画していた沢藤の遺志(1960年没)を受け継ぎ、有志によって展勝地桜並木のそばに建立された碑です。 展勝地は、今では東北地方有数の桜の名所として知られています。

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35年の短い生涯のうち、俳句と和歌(短歌)の革新・近代化を成し遂げた子規は、1893(明治26)年、一ヶ月余りに及東北旅行の最後の宿泊地として当地を訪れています。この旅行から生み出された作品に小説「一日物語」と、俳句、短歌を含む紀行文「はて知らずの記」によれば、黒沢尻到着の8月17日は旧暦の7月6日にあたり、家々には「七夕といふ風雨烈しく吹きすさみて天地惨憺たり」という空模様でした。

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松尾芭蕉は蕉風と呼ばれる俳風を創始し、俳諧に初めて高い文芸性を与えた俳人です。 俳諧紀行文「奥の細道」はあまりにも有名ですが、「夏草や兵どもが夢の跡」で知られる平泉以北の岩手は未踏で、北上には訪れていません。

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「冬のスケッチ」は賢治没後に見つかった原稿で、生前は発表されていません。50枚ほどの原稿用紙にそれぞれ数行の短唱が書かれ、これはその一唱です。創作年は未詳ですが、二十代の若い頃と考えられます。

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1931(昭和6)年、賢治と新井正市郎校長との交友がきっかけとなり、黒沢尻高等女学校(のちに黒沢尻南高等学校、2004(平成16)年4月より北上翔南高校に改変)に、賢治から「ギンドロ」の苗が贈られました。「ギンドロ」は、北欧種の「ウラジロハコヤナギ」のことで、賢治が大変好んだ木です。

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