瀬川 深

深は教育者で村助役でもあった瀬川早水の三男に生れ、後に同じ一族の医師 瀬川雅夫の養子となりました。旧制盛岡中学では啄木の一年後輩にあたり、それぞれの発行する同人誌を合併して「爾伎多麻(にぎたま)」を発刊、白羊会を 創設するなど、ともに活発な文芸活動を行いました。中学卒業後、京都帝大医学部に進み、小児科の医師となり、静岡県の浜松に在って晩年は俳句を作りました。

 瀬川 深 (1885~1948)旧江釣子村生まれ

 

深は教育者で村助役でもあった瀬川早水の三男に生れ、後に同じ一族の医師 瀬川雅夫の養子となりました。旧制盛岡中学では啄木の一年後輩にあたり、それぞれの発行する同人誌を合併して「爾伎多麻(にぎたま)」を発刊、白羊会を 創設するなど、ともに活発な文芸活動を行いました。中学卒業後、京都帝大医学部に進み、小児科の医師となり、静岡県の浜松に在って晩年は俳句を作りました。

啄木とは生涯にわたって変わらぬ友情を結び、啄木の深にあてた長文の書簡にそれを垣間見ることができます。また、深が啄木に捧げた詩「鶴飼橋」1904(明治37)年と、啄木が深に贈った詩「友藻外に」(1906(明治39)年)が、ともに当時の「明星」に発表されています。
碑の歌は1903(明治36)年8月の「明星」に掲載されたもので、その意は「落ちてゆく日よ、落ちてゆくならば消え入ってしまいそうな私のこの魂を、雲の果てまで導いて去ってくれ」と、青春期の感傷を歌っています。

揮毫は元江釣子公民館館長故伊藤昭八郎さんです。
(江釣子郵便局前)

 

 

◆北上駅西口からのアクセス情報◆

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詳細情報

名称

瀬川 深

住所

〒 024-0071

岩手県北上市上江釣子17地割237-1 江釣子郵便局前

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