和賀氏について

  • 和賀氏は平泉藤原氏が滅んでから、豊臣秀吉が全国を統一するまで、三百数十年以上にわたり和賀郡地方を治めました。その間、産業を興し、神仏の信仰や芸能を勧めるなど、次の時代の地域発展の基礎を築いたといわれています。

和賀氏のルーツ


平安時代の終わりころ、武蔵国には七党といわれる武士団がありました。最も大きな勢力をもっていたのは、横山党といわれた小野氏でした。子孫が武蔵国の国司として住みついたのが始まりといわれています。

小野義勝の代には領地(埼玉県熊谷市中条)の地名でもある中条を名のっています。中条義勝は長男の家長や次男の義季とともに源頼朝の側近として仕え、鎌倉幕府の要職を務めました。


次男義季は奥州刈田郡(宮城県刈田郡)に領地を与えられ移住し、領地の郡名である刈田を名のりました。その長男の義行が和賀氏の始祖となります。義行は奥州和賀郡に領地を与えられ、刈田郡から和賀郡に移住し郡名である和賀を名のりました。

鎌倉の政治情勢が大きく変動した時期、後鳥羽上皇が、源氏に替って鎌倉幕府の実権を握った北条氏を討とうとして敗れた承久の乱(1221年・承久三年)後、源頼朝が鎌倉幕府を開いてから約30年後のことでした。

和賀氏系図(鬼柳文書)

・和賀氏系図(鬼柳文書)

裁判に提出された系図で、和賀氏のルーツが分かる。和賀郡に写った義行の子らの名と、与えられた領地が書かれている。



和賀氏が最初に館を構えたところとして、黒岩の岩崎塞と考えられています。北上川べりの低地に沿った細長い独立台地の上にあります。隣に白山廃寺があり、平安時代後期に仏教文化が栄えたところです。

和賀氏の本城はその後、更木舘へ、さらには二子城へと移ります。

・岩崎塞(黒岩城)

南北約1KmのS字状大地が和賀氏時代の黒岩城(千曳城)。北部の六角形の区画が中心部。

岩崎塞(北上市黒岩)

・岩崎塞(北上市黒岩)

北上川の氾濫原を望む高さ10mほどの独立した台地上にある。

・更木館跡

南北の沢にはさまれた丘陵先端で、大きさは東西400m、南北200m、北上川東部最大の城館(じょうかん)。中心部が頂部にあり、東側に平坦地が続く。

更木舘跡

・更木館跡

北上川の氾濫原にのぞむ高さ数10mの丘陵先端に築かれている。手前斜面に段がみられるが、かなり農地に改変されている。

二子城への本城の移転


戦国大名として生き抜くための和賀氏の組織再編と強化は、更木舘からより守りの良い二子城への本城の移転となって、永享の大乱が収まった1436年以後ではないかとみられています。
二子城には、登りにくい段丘崖や有事にたてこもる独立丘があるほか、周りが北上川と沼地に囲まれ、敵の攻撃から守りやすい自然の要害となっています。大きさは南北1,000メートル、東西500メートルで、和賀郡内では最も大きい城です。
この城は1590年(天正18年)和賀氏が豊臣秀吉によって取りつぶされるまで本城としての役割を果たしました。

二子城跡

  • 二子城跡(きたぶら)

  • 北東隅に城主が住む主郭、北上川沿いに重臣屋敷が連なる。八幡宮のある丘は高さ70mで、多くは戦いのとき立てこもる詰城だった。

    小田原参陣と和賀氏


    各地の武将が領地の奪い合いに明け暮れた戦国時代、その終りを告げる織田信長の全国統一の事業は、家臣の豊臣秀吉に引き継がれました。
    北条氏の小田原城(神奈川県小田原市)を落とすため、各地の大名に参陣を命令しました。しかし、中央の情報が少なく判断に迷った和賀・稗貫・葛西の各氏らは参陣しなかったため、1590年(天正18年)、秀吉に領地を取り上げられてしまいました。

    和賀氏一揆


    秀吉に取りつぶされた葛西・大崎をはじめ和賀・稗貫など各地の武将が、守備隊の手薄をねらって立ち上がり、それぞれの城を取り戻しました。しかし、それもつかぬま、翌天正19年夏、秀吉の大軍にひとたまりもなく敗れ、和賀氏の総大将義忠は二子城を逃れ出羽方面に向かいましたが、途中で命を落としてしまいました。


    まもなく和賀・稗貫両氏の領地は南部信直へ、大崎・葛西両氏の領地は伊達政宗へ与えられ、ここに南部・伊達両氏の歴史的な領境いが成立しました。

    ・みちのく民俗村地内の境塚(国指定史跡)

  • みちのく民俗村(きたぶら)

  • 和賀氏籠城と和賀氏の最後


    最後の二子城主和賀義忠の子は生きのびて仙北郡(秋田県)にひそみ、成長して忠親と名のり、再興の機会をうかがっていました。関ヶ原の戦いを前に、1600年(慶長5年)秋、南部氏が出陣した留守をついて、忠親は一族や家臣を呼び集め、稗貫氏とともに南部氏の出城の鳥谷ヶ崎城(花巻城)を攻めました。しかし守りは固く、攻めきれず、岩崎城にたてこもりました。翌春、南部氏の大軍の前に力つきました。


    忠親は岩崎城を捨て伊達領に落ち延びましたが、一ヶ月後、七人の重臣とともに仙台で自刃し、国分尼寺に葬られました。しかし、忠親や重臣の子孫は伊達氏に守られて、現在の宮城県松山町および一関市東山町に住みつき、それぞれ今日に名を継いでいます。

    岩崎城跡

    ・岩崎城跡

    https://kitakami-kanko.jp/kitakanwp/tourism/iwasakijo/

    民俗芸能の発生と伝承 

    和賀氏は神仏の信仰とともに、その祈りの心が歌や踊りに表れた民俗芸能を盛んにしました。

    神楽(かぐら)は、山伏によって演じられた舞を領民が受け継いだ、生活に密着した芸能として領民の村々で盛んに演じられました。

    ・山伏神楽

    https://kitakami-kanko.jp/kitakanwp/tourism/about-wagashi/

    鬼剣舞は、神仏信仰の中から生まれた念仏踊りの一つで、剣をかざし、念仏によって悪霊を払い、人々の幸せを祈る踊りで、和賀氏が特に勧めたと伝えられています。

    ・鬼剣舞

    https://kitakami-kanko.jp/kitakanwp/folkart/about-onikenbai/

    田植踊りは、田植えから収穫までの動作を、田の神に見てもらい、豊作を祈る踊りです。これは講(こう)と結びついて集落や村をまとめる芸能として受け継がれていきました。

    ・田植踊

    https://kitakami-kanko.jp/kitakanwp/folkart/taueodori/

    本地方を代表するこれら三つの民俗芸能は、和賀氏の時代に生まれ、はぐくまれたもので、今日なお脈々と、かつ盛んに踊り継がれています。

    ■出典:和賀氏400年祭り実行委員会編集・発行 「二十一世紀への遺産 和賀氏の歴史」