通信は源頼朝に仕えた武将で、承久の乱(1221年)に敗れて極楽寺に流され、この地で没しました。一遍の墓参が描かれた国宝「一遍上人聖絵」そのままの面影が今でも残っています。
・聖塚入り口付近
河野通信(こうの みちのぶ)
河野通信は伊予国(愛媛県)の名族の出で、鎌倉時代の名高い武将です。
壇ノ浦での源氏と平氏の最後の海戦では、水軍を率いて源義経に加わり大活躍をしました。そして、源頼朝の妻、政子の妹を妻とし、頼朝の側で仕えました。
頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼした時には、岩手郡地方まで従軍しました。のちに伊予国の守護に命じられましたが、後鳥羽上皇が、幕府から朝廷に政権を取り戻そうとして戦いを起こした承久の乱(1221年)で、通信は上皇側につき、破れた通信は江刺郡に流されました。2年間ほど極楽寺に庵をむすび、世捨人となって余生を送りました。
このあと一族からは、時宗(じしゅう)という仏教の新しい宗派を開いた孫の一遍(いっぺん)、北九州に蒙古軍が襲来したときに大活躍した曾孫の通有(みちあり)など、日本史上有名な人物が出ています。一遍は自分の新しい仏教の教えを民衆に広めるために旅に出て、その途中にこの地にある祖父・通信の墓参りをしました。
この時の様子が絵巻物として有名な? 「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」 に説明文とともに描かれています。現在の史跡と絵とが一致する点で、大変貴重なものです。
・聖塚 説明板より出典
・絵と似ています
この墓は、土地の人々に昔から聖塚とよばれ、四角な段の上に丸く土を盛り上げた二段造りで表面を平らな石で覆い、堀をめぐらした名族にふさわしい、堂々とした造りになっています。