現在、展勝地と呼ばれる一帯は、極めて変化に富む地形であり、大正時代に桜が植えられる以前から県下一の名勝ではあったものの、当時付近の山の木は乱伐さ れ、荒廃するままになっていました。このままではこの地が小地方的な景勝地にとどまってしまうという危惧から行われたのが桜の植樹であり、ここを国家的名勝にしようとしたのです。
当時の黒沢尻町長(黒沢尻町は現在の北上市の一部)、沢藤幸治氏は1920年(大正9年)に和賀展勝会を起こし、桜の権威であった三好学東京帝大教授と井上清技師の指導と設計のもと「和賀展勝地計画」が立てられました。各地に桜の名所は少なくありませんが、その多くは同一種を単に多く植えたものです。しかし展勝地では、その計画段階から各種の桜を植えることが考えられ、この地を空前の桜の名所にしようとしたのです。また、桜の植樹だけではなく、桜は常緑の 背景によって一層その美を発揮するので、計画的に赤松など他の樹木も育成したのでした。
和賀展勝会という事業団体名は、沢藤氏の親友であった風見章氏が、陣ヶ丘からの眺めがすばらしく、展望のきいた名勝・景勝の地なので、展望の展と景勝地の勝をとって「展勝会」と名づけたものであり、そこからこの地を「展勝地」と呼ぶようになりました。
(沢藤幸治氏(手前右)と風見章氏(手前中) 撮影:北上市大通 佐々木享二氏)
そして沢藤氏は、原敬首相をはじめ、黒沢尻町・立花村の有志の理解と支援を受け、北上河畔にソメイヨシノの若木を植え、1921年(大正10年)和賀展勝地を開園し、1954(昭和29)年北上市の市制施行によって和賀展勝地は北上市立公園展勝地と呼ばれるようになったのです。
(昭和32年頃の沢藤幸治氏と展勝地 撮影:北上市大通 佐々木享二氏)