・極楽寺
伝承によれば、700を超える僧坊、36の堂塔をもつ大寺院であったといいます。平安時代の歴史書「日本文徳天皇実録(857年)」には、「陸奥国極楽寺、定額寺*に預かる」の記述があります。
*定額寺(じょうがくじ):国営の寺に準ずる位置付けの私営の寺
東北地方は、蝦夷の地と呼ばれ中央の支配が及ばない独立した地域でした。北上盆地においては西の奥羽山脈と東の北上山地に挟まれ、南北に貫いて流れる北上川に育まれながら人々は農耕を営み、豊かに暮らしていました。
しかし8世紀初めより徐々に南から中央勢力が押し寄せ、9世紀初めには征夷大将軍 坂上田村麻呂により北上に程近い場所に蝦夷支配の拠点、鎮守府として胆沢城(いさわじょう)が造営されました。それ以前の北の鎮守府、多賀城(宮城県)に代わって、更に北に置かれた胆沢城は、10世紀中ごろまでの150年間、古代東北北部を支配しようとする中央勢力の重要な拠点となっていきます。国見山廃寺は胆沢城と呼応する、最北の官寺だったと考えられています。
10世紀中頃になると胆沢城は衰退していきました。だが、これと反対に国見山廃山寺は益々隆盛していきました。国見山廃寺跡からは、9世紀中頃より10世紀中頃にかけての寺院に関わる発掘品が多く発見されています。
・東上空から見た国見山廃寺跡(画面奥は北上市街)
・青銅龍頭(国指定重要文化財・極楽寺所有)(きたぶら)
・青銅錫杖頭(国指定重要文化財・極楽寺所有)(きたぶら)
・北上市立博物館(きたぶら)
・木造毘沙門天立像(国指定重要文化財)(きたぶら)
・木造二天立像(国指定重要文化財)(きたぶら)
●きたかみ魅力発見ツアー・東コースにて国見山廃寺跡を巡りました。その時の様子です。
・旧参道入口~方三間堂跡~七間堂跡
・国見山神社(毘沙門堂)~胎内くぐりへ向かう自然歩道
・胎内くぐり~国見山展望台